ご縁

 

1.神戸大学・軽音楽部

 

 

神戸大学キャンパス地図神戸大学からの夜景、練習後この夜景を見ながら帰路に

 

 

 

 

TUTの縁の第一は、なんと言っても誕生の舞台となった「神戸大学・軽音楽部」。

1965年、神戸大学に、ブルーグラスバンド「The Bluegrass Travelers」、ロックバンド「The Ramblers」、ハワイアンバンド「The Floral Hawaiians」の3つのバンドが集まって、神戸大学軽音楽同好会として結成された。初代会長は、学生時代からその名声が関西だけでなく日本のブルーグラス界に鳴り響いていたJosh大塚氏。

66年、竹元が入会した時はまだフォークソングバンドはなく、その年の新入生を中心にフォークソングバンドと、他にフルバンドが新しく結成された。

各バンドの活動としては、大学祭や寮祭が中心であったが、当時全盛期を迎えたロックやフォークという音楽のバンド活動が大学生の間で急速に広まり、各地で学生中心のアマチュアバンドが出演出来るコンサートやライブ、ラジオ番組、音楽コンテストなどが開催されるようになり、学外での活躍の場が増えていった。

67年、ロックバンドが「大学対抗バンド合戦」に出場、秋にスタートしたラジオ番組「歌え、MBSヤングタウン」には、ブルーグラス・ロック・フォークと立て続けに出演した。

この年には部に昇格。

68年には、ブルーグラスバンドが「ヤマハライトミュージックコンテスト」に出場し、全国大会まで駒を進めた。69年にはTUTも「ヤマハライトミュージックコンテスト」に出、関西四国地区決勝ではフォークソング部門第3位となったが、全国大会出場は逸した。

部室は六甲山の麓にある神戸大学教養学部鶴甲校舎体育館の裏にあった部室棟の1室で、10室位の他の倶楽部と同居で1室が10畳位と狭く、そこにドラムセットやアンプが並びロッカーもあったので、練習はメンバーがひしめき合いながら行っていた。

TUTは後続バンドであり、先輩バンドが使わない時には部室で練習出来たが、ほとんどは部室付近の野外で行っていた。雨の日は部室棟や体育館の軒下で練習した。

我々の声が大きいのは、この野外の練習の賜物かも知れない。

68年春、当時はまだバスケットボール部に在籍していた上野が、未熟なフォークソングバンドの練習を、体育館のもの陰から「下手くそやなあ」といった目で覗いていたのを、竹元は今も良く憶えている。

68年11月 軽音楽部定期演奏会パンフレット

68年11月軽音楽部定期演奏会パンフレット

68年11月軽音楽部定期演奏会パンフレット

 

 

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部室に関しての一番の思い出は、69年夏六甲山麓でゴルフ場など大規模な土砂崩れの被害が起きた豪雨である。丁度その日我々は夜の「Lost City」出演に備えて部室で練習しており、そのうち部室裏の崖が崩れて土砂が部室棟に流れ込んで来た。そこで我々は、急遽アンプやドラムをロッカーや机の上に引き上げて急ぎ退散したが、数日後来てみると、なんと部室は数十センチ土砂に埋まっていた。

その日阪急六甲駅まで、ずぶ濡れになりながら下りていったが、既に大阪・梅田方面への電車は運行停止になっており、神戸・三宮方面の電車も我々が乗った電車の後、運休になってしまい、JR(当時の国鉄)も全面運休で、三宮に着いたものの身動きが取れず、とにかく三宮からは更にずぶ濡れになって、元町の「Lost City」に夕方辿り着いた。当然演奏どころではなく、ローソクの光をもとに軽く練習したり、麻雀をしたりして、翌朝電車が運転再開するまで「Lost City」で過ごした。

その後軽音楽部には、ボサノバなどの新しいバンドが誕生したものの、学外でのいろんな発表の機会が増えるにつれ、バンド別での活動が活発になり、それまでは貴重な発表の場を提供するという役割を果たしていた部に所属することの意味合いが薄れ、いろんなジャンルのバンドが一つの部に所属し続けることが難しくなり、ブルーグラスは70年台前半に部を離れ、また時代の流れで、フォークソングなどはマイナーな音楽になって、やろうという学生もいなくなって消滅、紆余曲折の末、現在ではロックとジャズバンドが部として活躍している。

ただOBは部発足当時のメンバーを中心に、ジャンルを問わず、地元関西では数年に一度、演奏の出来る会場でOB会を開催しており、中にはセミプロで今尚活躍しているOBもいれば、OB会に合わせて、俄かバンドを結成して当日演奏する仲間もいる。

昨2005年は創部40周年の記念OB会が盛大に開催された。

関東でもOBが多数在住在勤しているので、90年代4回ほどOB会を開いたが、現在は休眠している。

 

 

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2.「Lost City」と野崎謙治さん

 

◆虎の穴のライブハウスLost City

 

 

日本人として初めてバンジョー奏者としてアメリカで認められ、グランド・オール・オープリーにも出演した野崎謙治マスターのLost Cityは、当時、ブルーグラスを中心にセミプロが集うカントリーウェスタンのメッカであり、アマチュアバンドにとっての登竜門、試練道場、正に「虎の穴」の存在であった。 

西高東低のブルーグラス界の状況を背景に、全国からその筋で認められた者達のみが、高度な演奏技術を競い、楽しむという、ある意味尖がった、独特のムードを漂わせる空間であった(アメリカのレコード会社とのパイプもあり、70年以降、Blue Grass 45を手始めに、そのハウスバンドを本土に送り出した…Blue Grass界では知らぬはもぐり、と称された)。

学生バンドTUTの真剣勝負の修練道場であり、常に、覚悟を決めて登場する緊張の舞台であったが、演奏さえ終われば、青春真っ只中の楽しい、楽しいPlay Groundであった。 野崎さんのManageの下、かなり頻繁に、ウエスタンやフォークの大規模な定期的演奏会の主催や外国人ミュージシャンの招聘も行っていた。 

店としては、その保有レコードの多さの他に、やはり、ハウスバンドの生演奏が有名であり、九州や四国、全国あらゆるところから、ブルーグラスファンやカントリーファンが、演奏を聴きに来ていた。 小さな、30人も入ればギュウギュウのこのライブハウスが、週末は一杯になり、店の外の路地に多くの客があふれていた。 正に、プロ以上の演奏家がゾロゾロ揃っていた。 万人が日本No.1 と認めていた大塚ブラザース、当時大学バンド対抗戦の常勝軍で寥・李両君を有する桃山大学の「The Blue Glass Ramblers」、カントリーの福原さん、女性にも人気の渡辺ブラザース(大塚さん達とLost City CatsBlue Grass45を結成)、珍しい石田夫妻バンド、等々。特に、器楽の演奏に関しては、正直、本場のアメリカを凌ぐといっても過言で無い面子が揃っており、東京からも演奏者を含む多くのお客さんが、このLost Cityを訪ねてきた。

ただ、フォーク系のBandは、我々TUTと、Four Fresh MenなどもやっていたFolk Emysの2Bandのみという、要は、正に100%近くブルーグラスバンドが中心のライブ体制であった。 

Western風の新しいBandを結成した高石友也さんも、丁寧に演奏の可否を申し込まれ、数回Lost Cityで演奏し、頑張っていたのを思い出します。高石さんとTUTは、神戸と和歌山の労音コンサートで一緒のステージにも立ちましたが、高石さんはどこから見ても、真面目で謙虚、本当に誠実な人柄が表れる御仁でした。

その他、手塚治虫さんの最初のアニメ大作“千夜一夜物語”の音楽を演奏した日本最強の本物R&Bバンド“Helpful Soul”がLost Cityの常連であったのも面白い話。彼らとは、TUTとして、2回ほど同じコンサート・ステージで競演したが(勿論、1部2部と分かれていた)、当時から彼らは、摩訶不思議な存在であった。彼らのリードギタリストのショーちゃんが、「本当は、自分は、The Bandのようなバンドをやりたかったんだ。」と我々につぶやいたのが、唯一の、音楽の接点と納得もし、感心したのを覚えている。(当時、ボブディランのバックをやっていたThe Bandは日本では殆ど知られていなかった)。 もう一つ感心したのは、彼らはどんなステージでも(高額ギャラに釣られて、TUTと2バンドでこなした、老人と子供を前での百貨店屋上のイベントでも、耳をつんざく音を出し)、全く手抜きをすることなく、自分達の思う音楽を発信すべく、時間一杯、力一杯、汗まみれにBestの演奏をする、正に、真のプロであったことである。 彼ら4人もLost Cityをねぐらとした外人学校マリストの繋がりであったが、音楽も外見も全て、とにかく、強烈な印象であった。

カウンターから伺い見る世界。たわいない揉め事、女々しい男、喧嘩する若者、盗癖のある少年。 友情と裏切り、商売の厳しさとオーナーシップとの確執。酒、タバコ、外人と日本人、甘い学生さんと社会人。 男の世界と女性の存在。 華やかな演奏舞台と業界の無情。夢や楽しさ、純粋な心と、若さ故の暴走。 憧れと妬み。 悲喜こもごもの風景がある、良くテレビに出てくるような、人間模様の入り組んだ、小さな、小さな、ちっぽけな世界。でも、確実に、70年当時の日本の若さと混沌を象徴する、世の中の縮図のような空間がありました。

(閑話)

Lost Cityのお客として、珍しい人も来た。 あの“モーレツ!”の小川ローザさんが、コマーシャルが大ヒット直後の絶頂期に来ました。 可愛い服で、小柄だけど、やけに綺麗な女性が、真ん中の席に座ったな、と思った瞬間、小川ローザさんと判りました。 美しい! 胸がドキドキ、ワクワクしました。 その日、我々TUTも演奏が入っていたのです。 やった! これは頑張らねばと異常に興奮したのを覚えています。 店の端っこでウロウロしたのを覚えており、チョロチョロ判らぬように、壁越しに垣間見ると、本当に後光が指すように綺麗でした。 そして、しばらくして、我々の出番近くになりました。マイクや楽器セッティングの準備をすべく、“行くぞ、ローザ!”と、満を持して初めて正面、まともに客席の彼女を見ました。 でも、何故かしら、その瞬間、彼女は消えてました。 トイレ立ちに淡い望みをつなぎましたが無駄でした。 彼女のいた席は空いたままでした。 いつ、どのように帰ってしまったのかも見届けられませんでした。 深い失望だけを覚えています。 Lost Cityは、有名な女性客も多く、あのジャズの女王、マーサ三宅さんも東京から来られました。 彼女は、どっしりと真ん中に座って、じっくりと、しっかりと、我々バンドの演奏を聴いてくれました。 でも、やはり、小川ローザにも聴いて見て、長くいて欲しかった。

蛇足はさておき、Lost Cityは、多くの傑出したミュージシャンを輩出しており、TUTと同世代の、前述の大塚弟の章さんは今でもアメリカで演奏家として活躍されていますし、渡辺兄弟の兄敏雄さんは、日本ブルーグラス会の取り纏め役、弟・三郎さんは今も評論家として、Josh大塚さんと同様に、ブルーグラスの世界におられます。 福原さんが、サラリーマン生活の後、自分の店を持たれ、歌を続けておられる事は、一部では知られています。特に、TUTが卒業した後、Lost Cityは最盛期を迎え、そのハウスBandを本場に逆輸出していたのは、今にしてみても、感心し胸をはれる話です。

 

 

 

 

「Lost City」の店内、中央右バンジョーが野崎さん LostCity前

 

 

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◆Lost Cityの野崎謙治さん

 

 

末廣光夫プロデューサーと並んで、TUTの育ての親といえるのが、Lost Cityの野崎さん。

プロ外国バンドが、神戸や大阪で公演をする時は、必ず一度は、夜Lost Cityに寄って、好きに演奏をしていました。

彼ら外タレの間では、Lost Cityはかなり有名だったようです。
実は、マスターの野崎さんは、バンジョー弾きとしても名をなした人です。立命館大を出て勤め人をしていた野崎さんは、ある時、一大決心をして、ギターを一本持って100ドルだけを握り締めてアメリカに渡ったと、本人から聞きました。
バンジョー弾きとして、バイオリン弾きの邦人相棒(現在も米国で健在のショージ・タブチ氏)と、ヤマハブラザーズとか大阪オーキーズという名の2人バンドを結成、アメリカのウェスタン界を放浪したのです。
いろいろな酒場で演奏し、「歌が何を言ってるか判らんぞ、下手糞!」とビール瓶を投げつけられたり、大変な苦労をした、と聞きました。
でも、最終的には、向こうでもバンジョー奏者として認められ、グランド・オール・オープリーに出てバンジョーを弾いて(Lost Cityには、その勇姿写真が誇らしげに飾ってありました)、念願の夢を果たし、帰国したのです。

かの有名な、ブルーグラス界の重鎮アール・スクラッグスと懇意であり、後で生まれた息子にアール君(著)と名づけたと聞いたのには、びっくりしました。

ただ現役を引退して、Lost Cityのマスターになってからは、指の腱を痛めたこともあり、余ほどのことが無い限り、愛用のギブソン・バンジョーMaster Toneを手に取り、演奏することはありませんでした。
一度、野崎マスターが、上野に、囁きました、「なあ、上野ちゃん、昨日、久し振りにバンジョーを弾いちゃったよ。店に来た若造の白人が、飾ってあるバンジョーを見て、“いいバンジョーだけど、叔父さんも弾けるのかい?”と言われたので、頭にカーッときて弾いちゃったよ。あいつビックリして黙っちゃったな。」と。
野崎さんのバンジョー演奏、TUTメンバーも数回しか聞いたことがありません。
野崎さんは、がはねた後、客に誘われると外人クラブに飲みに行くが、酔ってそのうちに外人と喧嘩を始めることがパターンなのも、仲間うちでは有名でした。
昼間は、大勢の若者に囲まれながらも、宴が終わるころ、どこかに孤独や寂しさを閉じ込めようとする、良く言うと、孤高の独り者でした(晩年に若い女性と結婚するまでは…TUTは結婚式で演奏しました)。

客もひけ、夜遅く、テーブルも片付け、広くなったLostの真ん中に一つ置いた椅子にすわり、今日も終わりかと、たまに、「Cigarettes And Whiskey And Wild, Wild Women…」と唄うのを聞いた人は、限られたLost Cityの住人だけです。いい歌でした。

TUTのバンジョー弾き谷戸は、1年ほど、野崎マスターの片腕としてLost Cityのカウンターの中に入り、手伝いアルバイトをしていました(そのお陰か、留年してたっぷり人生修行を重ねました)。 

実は今度加わった馬渡も、谷戸の前にLost Cityでバイトをしていました。

その後、野崎さんも引退され、198?年ごろに、Lost Cityは閉店となっています。
現在、野崎マスターは、移住して、オーストラリアで暮らしています。

たっぷり、しっかりお世話になったTUTの大切な恩人の御一人です。

 

 

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3.末廣光夫さん

 

 

TUTの正に育ての親であり、現在TUTが存在している所以の御仁。

今年2006年喜寿を迎えるも、今だ、バリバリの現役プロデューサー。

今や全国の各地で開催されているいろんなジャズのイベントの先駆け・元祖・本家であり、今年で25周年記念を迎える“神戸Jazz Street”の発案推進者であって、その実行委員長であるが、このJazz Streetに先立つデキシーランドジャズの祭典は、何と40年も開催を続けておられる、スイングジャズ・デキシーランドジャズ大好きの評論家でもあり、先鋭的、超人プロデューサー。

ジャズの世界では、いろいろな意味の先駆者として有名であり、ジャズミュージシャンで、この方の名前を知らないのは、もぐり、とも言われている。 昔から、意図的に東京を避けて、ずっと神戸で活動されているのは、これまたユニーク。 戦後、荒廃する日本で初めてJazzをラジオから流したひととしても、古い通のジャズファンの間では有名。

一般的な言葉ともなっている“電話リクエスト”というアイデアとやり方を発案し実行されたのも、末廣さんであり、その面でも、放送業界では有名(東京に逆輸出)。
昔は、アナウンサーもされており、デューク・エリントンが格別御ひいきであり、彼の来日時のコンサートの司会をされたのを記念の最後に、プロデューサー業一筋に専念されたと聞く。

昔は稀有の存在の英語ペラペラ人気司会者として活躍されていた奥様・大牧暁子さんと、時々ペアーを組んで司会をなさるのは、今は、愛嬌(昔は、有り得なかった事象のようである)。

神戸Jazz Streetに、毎年、海外は勿論、日本のTopミュージシャンが、わんさとこぞって顔を揃え、それも全体の企画・調和が素晴らしいのは、この末廣プロデューサーと末廣さんの親友で音楽監督である秋満義孝さんのお力と、誠に僭越ながら、感服している次第。

TUTとは、Lost City時代に、ラジオ番組への出演収録時に出会い、高く評価サポートして頂き、また、長い冬眠を経た、30年後のRe-Unionのきっかけを作って頂いたのも末廣さんで、足掛け、40年の長いお付き合い。

でも昔から、末廣さんは、音楽には誠に厳しい。全て本物志向で、駄目なものは駄目、はっきり、ぐっさり、指摘される。甘えなど絶対に許されない。TUTの今日があるのは、そのある種心地よい緊張感があったからかもしれない。

TUTとしては、感謝の言葉がないほど、お世話になっている恩人である。

 

 

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末廣光夫さん 04年10月神戸ジャズストリートの開幕パレード。前夜の台風をもろともせず開幕

 

 

 

 

(以下、兵庫県芸術文化協会 HPより抜粋・加筆)

 

 

「神戸ジャズストリート」の生みの親は、電話リクエスト発案の元祖DJ

  昭和4年東京生まれ。昭和27年、ラジオ神戸(現AM KOBE)の音楽プロデューサーの職につくかたわら「労音コンサート」をはじめ外国アーティストのコンサートのプロデュースや司会に活躍。昭和41年に米国・カナダのジャズ界視察を機に「全日本ディキシーランド・ジャズ・フェスティバル」を毎年開催し、今年で36回目を迎えています。昭和50年には米国ニューオリンズ市から名誉市民の称号を授与されました。昭和57年、神戸のジャズの伝統を生かして企画した「神戸ジャズストリート」の発案者であり、スタート以来その実行委員長として海外アーティストの交渉やプログラム・ディレクターを務めています。

平成8年サントリー地域文化賞、
同年神戸市文化活動功労賞、
平成14年、兵庫県文化功労者表彰受賞。

  ジャズに初めて触れたのは、終戦直後のこと。ラジオから流れる米軍の極東放送でグレン・ミラーやベニ―・グッドマンの音楽を知りました。
「アメリカの音楽もいろいろあるけれど、私はビートのあるジャズが好きです。ジャズはアメリカ人にとってはダンス音楽なんですね。鑑賞するだけでなくダンスをしながらジャズを聞いたんです。しかしバンドの人たちもダンスの伴奏だけでなく演奏だけ聞いてほしいというので、ジャズ愛好家の仲間とダンスホールの営業時間外の昼間に演奏会をしたり、ジャズレコードの鑑賞会を開いたりしてました。その頃から、私は仕切り屋でね。企画して会を開いてジャズを解説して、司会までしていました」

  昭和二十七年の五月、活動を買われた末廣さんはラジオ神戸(現AMKOBE)の音楽プロデューサーの職につきました。
裏方ではなく末廣さんがディスクジョッキーとして番組に登場したのは、その年の七月のこと。
「放送台本を書くのが面倒だったら、ジャズはアドリブなんだから、君がしゃべればいいじゃないかと上司に言われましてね。女性アナウンサーと二人で自由にしゃべりながら曲を流すという、現在もっともポピュラーな番組スタイルの草分けとなったわけです」
  東京にもなかった斬新な番組は、大変な人気を呼びました。
  その年のクリスマスイブ、末廣さんは暖めていた新しい企画を実行しました。
「十二時から午前二時までの特番でしたが、電話によるリクエストを受付たんです。ジャズとポピュラーの中からお好きな曲をお寄せくださいって」
  この特番も大評判で、翌年にはレギュラー番組となりました。電話リクエストという全く新しいリスナー参加型番組を作り出した末廣さんは、以来五十年、今も毎週木曜日午前二時から三時までAMKOBEで「ホットジャズライン」という番組のDJを務めています。
  ラジオのDJをするかたわら、末廣さんは来日した数多くの有名外国人ジャズ演奏家のコンサートのプロデュースや司会を担当しました。デューク・エリントン、ルイ・アームストロング、レイ・チャールズ…。まさしく世界的な大スターたちとの出会いでした。

  昭和五十六年、神戸ではポートピアが開催されました。ポートピア会場でのジャズフェスティバルを大成功に導いた末廣さんは、神戸でのジャズ祭を継続したいと考えました。そうして誕生させたのが「神戸ジャズ・ストリート」です。
「ライブハウスの多い北野で、プロとアマがともに演奏しファンと一緒に楽しむ、そんなイベントを開きたいと思ってね。ストリートに沿って点在するライブハウスや洋館、教会など十数箇所の会場のコンサートを『はしご酒』ならぬ『はしごジャズ』してもらう。家族や友達や恋人とジャズを聞いて、おいしい物を食べて、ショッピングする、素敵でしょう」

 

 

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4.神戸Jazz Street

 

◆神戸Jazz Street

 

 

明治以来、国際港湾都市として栄えた神戸には、海外から多くの人や物が流れ込み、独特の文化が育まれている。外国人居留地であった北野界隈は、今も坂道のここかしこに洋館や教会が点在する異人館の街として知られる。ジャズ演奏の歴史も古く、1923(大正12)年に日本最初のジャズバンドが結成され、神戸は日本のジャズ発祥の地と言われている。ジャズ評論家で、長年神戸のジャズを支え育ててきた末廣光夫氏は、ライブハウスも多い北野で、ファンとプレーヤーの新しい交流の場となるようなイベントを開けないかと考えた。そして、ファンやプレーヤー、ライブハウス、市やマスコミとのネットワークをいかして実行委員会を組織し、1982年、「神戸ジャズ・ストリート」を開催した。

実はその前年1981年に神戸ではポートピアがオープンし、そのポートピア会場でのジャズフェスティバルを企画・大成功に導いた末廣さんが、神戸でのジャズのお祭を継続したいと考えて誕生させたのが「神戸ジャズ・ストリート」だ。

 

 

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神戸ジャズストリートのパンフフレット 05年10月神戸ジャズストリート前夜祭。(新神戸オリエンタルホテル)

 

 

 

 

神戸ジャズ・ストリートの最大の特色は、「はしご酒」ならぬ「はしごジャズ」である。
それぞれに個性をもったライブハウスや洋館、教会など十数ヵ所の会場で、同時多発的にコンサートが開かれる。観客は入場券がわりのワッペンを付け、プログラムを片手に思い思いの会場に散らばってゆく。
自分の好みにあわせて次から次へと会場をめぐり、音楽と街と人との出会いを楽しむことができる。
プレーヤーは、地元のプロとアマチュアのミュージシャンに加え、海外や東京のプロも参加する。

神戸ではアマチュアといっても20年30年のキャリアを持つ古強者もざらで、テクニックも確かである。目の前で外国と日本、東と西、プロとアマが、時には火花を散らし、時には和気藹々と演奏するのも、ファンにとってはたまらない魅力になっている。
毎年楽しみにしている観客も多く、東京などからわざわざ訪れる人も含め、近年は2日間で6千人近くが集まる。お客さんの案内やプレーヤーの世話、会場運営などを担当するのは、実行委員と約百人のボランティアである。当初は、市が設立した神戸市民文化振興財団が事務を担当していたが、1992年から企画・運営のすべてを実行委員会に移した。
これによってより多くの市民を巻き込む形でジャズ・ストリートは発展し、95年の阪神大震災でその真価を発揮することになった。
震災では、実行委員やライブハウスの多くが大きな被害を受け、開催は絶望的、と誰もが思った。しかし、全国のファンや常連のプレーヤーから続々と届く励ましの声に応えようと実行委員たちは奮起した。
そして、地元の人々の積極的な協力も集まり、震災から10ヵ月後、みごと第14回目のジャズ・ストリートが開催された。これによって震災で観光客が激減していた北野に人が集まり、街にそして人に活気が戻った。

神戸ジャズ・ストリートは、震災を契機に地元との結びつきを強めた。

実行委員会では、一層幅広い人々の参加が得られるように、オランダの国際ジャズ・フェスティバルや国内のステューデント・ジャズ・フェスティバルとの交流を深めている。
街と人、人と人とを結びつけるかけがえのない地域の文化活動として、神戸ジャズ・ストリートはこれからも愛され続けることだろう。

 

 

(サントリー文化財団からの地域賞受賞の際の1999年11月のアナウンス記事より転記)

 

 

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神戸Jazz StreetKJS)は今年で、25周年記念を迎える、日本最初の先駆者にして、今も盛大に繰り広げられ続けている、世界にも胸をはれる、大きなジャズの祭典である。
毎年、海外からの多くのプロ・アマミュージシャン、東京からのベテランミュージシャン、そして、地元関西のミュージシャンが、神戸三宮に顔をそろえ、プロが中心になって演奏を披瀝する500名を超える前夜祭の豪華ディナー・パーティーから始まり、3日間にわたり、総勢250名を超えるミュージシャン達が、思う存分のJazzを神戸の町に響かせるのである。

北野町界隈を中心に点在する、様々なライブハウスで、各々のミュージシャンが、思い思いのスタイルと編成で、演奏を競い、セッションや交流を楽しみ、一方、どこにでも入れるチケット(ワッペン)を持った観客は、好きなミュージシャンを、好きな場所を、昼間から、はしご酒ならぬ、はしごジャズ、する訳である。

その長い実績と歴史より、かの有名なオランダ・ブレダでのジャズフェスティバルとは、10年以上の提携関係にあり、毎年、ミュージシャンの招待合戦や深い交流があるのも特徴で、それが、またいろいろな海外の才能ある若いミュージシャンの紹介にも繋がっている。

キラ星のごとく顔を揃える日本の大御所やTopミュージシャンの人達が、何のけれん味もなく、アマと同じステージに立っているのも、このKJSの特徴である。
ミュージシャンも聴衆も一緒になってジャズを楽しむ、そこには何の垣根も分け隔ても無い、というのがKJSの素晴らしいコンセプトであり、当初よりプロデュースを手掛ける末廣光夫実行委員長とピアニスト秋満義孝音楽監督の意向と聞いている。

 

 

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95年10月神戸ジャズストリートの開幕パレード、その年1月の阪神淡路大震災からの復興を願って挙行された。イチローの活躍等で日本一になったオリックスのマスコットも参加。 神戸市内の道路に嵌め込まれた記念プレート

 

 

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◆神戸Jazz StreetTUT

 

 

TUTはジャズとの畑違いのフォークバンドでありながら、このKJSに2001年から5年連続出演させて頂いている。特に2004年・2005年は、前夜祭のディナー・パーティーでも、プロの方々に混じり、演奏させて頂いた。身にあまる光栄で、いつも、身が引き締まるというより、ビビッているのが、実態である。

前夜祭を含めると、3日間で、5つのステージをこなすので、演奏自体かなりのハードWorkであるが、前夜祭などは、Jazzの大御所たちの谷間のなかで、いくばくかの気分転換、大切なメイン料理の間の口直しの小さなシャーベット役になれれば幸い、と思って頑張っている。

でも5年も続ければ、ということで、Jazz洪水の中の異星人・お邪魔虫なりに、TUTを楽しみに聴きに来てくれるファンも増えているようで、光栄とBand冥利以外の何ものでもない。TUTの4回の演奏会場に足を運んでくれる多数のお客さんの存在こそが、連続5年出演の原動力といえよう。 

KJSのお客さん達の耳は大変肥えており、また、プロの方々の前で恥ずかしい演奏は出来ず(ステージに立つだけで面映い気もしますが)、KJSは、TUTにとって、正に気合の入る、切磋琢磨の場である。

 

 

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5.Back In TownTUTの年2回の定期演奏の場)

 

 

Back In Town   音響設備の整った「Back in Town」店内

 

 

 

 

TUTは、2001年春に再結成し、同10月に神戸Jazz Streetに出演して本格活動を開始するが、それはまだ雛のような危なっかしい立ち上がりであった。 そして、関西だけでなく、やはり東京での演奏の機会を物色していたその時に、丁度、Back In Town という新しいライブハウスができたことを知った(BCBの福岡さん経由…実は、福岡さんはベーシスト立岡と同期で我々と同じ大学の軽音楽部の仲間であり、常に交流を重ねている。)。

そして、飛び込みのメールで、出演を申し込み、快く迎え入れてもらい、2002年2月の土曜日に、単独でライブを行い、30年来の念願であった東京進出実現ということになる。この最初のライブでは、レパートリーが、まだ、17曲しかなく、1部と2部で同じ曲が重複し、一種の恥ずかしさと後ろめたさを感じたのを明確に覚えている。でも、当日は、知人・友人で超満員だったのも覚えている。

その後、毎年2回の単独ライブを継続させて頂いており、2回のキングストン大会出演をいれると、合計11回もBack In Townで演奏し、お世話になっている。 中でも、この9回の単独ライブが継続しているのは、毎回毎回,溢れんばかりのお客様が詰め掛けて頂けるからで、皆さんに感謝とともに、このBack In Townの存在なくては、今のTUTもなかったであろうと、Bandメンバーでよく話をする。

Bandにとって、演奏の場の存在は命、そして、それが素晴らしい環境の場であればあるほど、切磋琢磨や鍛錬、そして励み・精進につながるのである。 再結成後のTUTは、神戸Jazz StreetBack In Townのお客様に育ててもらったようなものである。 そして、内容はともかくTUTのレパートリーも、今は、60曲を超え、ステージで曲が重複することはなくなったのではある。

正直、世の中ライブハウスは、沢山存在するが、音響設備、お客様への食事・飲み物のサービス内容、店のムード、これらの総合点で、Back In Townは、日本でTopクラスであることに間違いはない。アメリカに多く存在するご機嫌な大人向けのライブハウスと全く遜色ない(いや、Better)ことは、嬉しい限りである。

ワイン・ウイスキー・ビール、好きな酒を飲み、美味しい料理を口に運び、親しい友人と語り合い、そして、ステージから流れる好きなFolkSongを聞き流し、夜は、笑いの中で、過ぎて行く。 こんな素晴らしい空間での時間の過ごし方、至福の時、そのものです。 団塊の世代は、残りの時間をこうして過ごすのです。

一方、Back-In-Townには、多くのThe Kingston TrioマニアやThe Kingston Trio Bandが集まっている。
ボブシェーンに声がそっくりな山田さん(なんと、BITオーナー)、星野さん、藤森さんのThe Kingston MarkVは、その兄貴分的存在である。
その博学さとHPGradeの高さで評判の大久保さんの所属するThe Reveriesも、確固たる存在感を放っている。
集まる仲間皆の潤滑油のような柴山さんや安藤さんの所属するRamblersは、誠に、活動的である。 Mash Liquorも常に中心にいる。Gin FizzFactorMenGuardians、いやあ、もう数え切れない。
これらを背景に、毎年恒例開催のキングストン大会には、数多くのThe Kingston Trioのコピーバンドが出演する。毎年数を増し、今や、16バンドを超える大盛況である。
この大会は、本家The Kingston TrioHPに紹介されるなどして、WorldWideになっているようである。

TUT
は、2002年の第一回目大会と昨年2005年の第7回大会の2回だけ出演させてもらっている。
山田さんに怒られているが、毎年、開催が、2月・8月というTUTの休眠期間にぶつかったり、メンバーの上京都合とTimingが合わないことが、我々が皆勤となれなかった理由である。
遠距離恋愛Bandでなければ、当然、毎回出させていただきたいと思っている。 神戸盟友BandBCBも、1回だけ、このKT大会に参加している。

いやあ、いずれにせよ、BITに集う皆さんのThe Kingston Trioに対する、思い入れや、詳細な知識の集積には、いつも、脱帽以外に言葉も無い。
これは、関西には無い状況であり、やはり、情報の中心は東京、ということだと、妙な納得をしてしまう。TUTメンバーは、皆と話をすると、いつも感心し、刺激を受け、上には上がいるもんだ、と唸ってしまうのである。

The Kingston Trioバンド以外に、Folk Dreamersの若杉さんや、Rainy Blue Geneのガンさん達、そしてBITマネージャーの安井さん御自身も、TUTが感謝する楽しいBITの仲間達である。 

正に、音楽を通じて、皆、青春を再燃させているし、それが自然な空間が、Back In Town である。


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